脾臓の解剖と役割
脾臓は、成人の場合、ほぼ手拳大の大きさであり、重量80~120gの最大のリンパ組織であって、主に細網内皮の組織としての活動、すなわち血球の産生、細胞や異物の破壊処分等を通じて、血液のフィルターとしての異常赤血球や老化赤血球、その他の異物の除去、血小板の貯蔵器官としての機能を担っているとされる。
なお、従来は脾臓は、「摘出(=脾摘ないし摘脾)を行っても、肝、リンパ節、骨髄などの細網内皮系が機能を代償するために、著明な脱落症状は残さず、生命には支障を来さない」とされていたが、その一方で、脾摘後に、明らかな感染巣を認めないのに術後38度前後の発熱が持続することがあり、免疫能の異常に起因すると考えられる旨が指摘されるようになった(特に、4、5歳以下で脾臓を摘出すると感染症が重症化しやすいことが指摘されている。)。
そのため、脾臓が外傷等によって損傷しやすい臓器であることもあり、従来は損傷時に脾臓全体を摘出する処置が多く取られていたところ、脾摘による感染防禦能力の低下、敗血症発生率の上昇が問題とされてからは(後述)、脾臓全摘には慎重であるべきとして、近時はこれをできる限り温存する処置がより一般的になってきた(以上、「民事交通事故訴訟損害賠償額算定基準2004」425頁「4.労働能力喪失率の認定について」参照)。
脾臓摘出後に生じうる重篤な疾病について
脾摘は8級11号から13級11号に等級が改められたが、近時、新たに脾臓摘出による重篤な感染症の危険が指摘されている。
そのうちの重大なものとして、脾摘後重症感染症("overwhelming postsplenectomy infection"=OPSI)と脾症("splenosis")がある。
(ア)OPSIについて
OPSIは解剖学的もしくは機能的無脾状態で発症する感染症であり、脾臓摘出後では約5パーセントの確率で発症し、一旦発症すると適切な抗菌薬を使用しても死亡率は50~80%に上り、発症から数日で死の転帰をたどる極めて予後不良な疾患であるとされる(文献A「急激な経過で死亡したoverwhelming postsplenectomy infection (OPSI)の一例」(須貝孝幸ほか)649頁)。
OPSIの原因(起因菌)は肺炎球菌が最多であるが、髄膜炎菌や大腸菌、インフルエンザ菌などの有莢膜細菌である。
※ここで「莢膜(きょうまく、capsule)」は、一部の真正細菌が持つ、細胞壁の外側に位置する被膜状の構造物であり、細菌が分泌したゲル状の粘質物が、細胞表面にほぼ均一な厚さで層を成したものである。白血球による食作用などの宿主の免疫機構によって排除されることを回避する役割を持ち、病原菌の病原性に関与している。
具体的には、脾摘により前記のような「細菌のフィルター機能」が消失し、細菌貪食能の低下や抗体産生・ヘルパーT細胞の機能低下を来たすこととなり、これがOPSIを発症しやすくなる原因となっている(前掲文献Aの649-650頁)。
前記の通り、OPSIの発症の原因となる無脾状態は、解剖学的なもの機能的なものの両方を含むが、特に、胃癌・外傷の際の脾摘後のOPSIにおいて死亡率が高度にみられるという問題がある(文献B「脾摘後重症感染症と肺炎球菌ワクチンについて-ガイドライン作成に向けて-」(橋本直樹)114頁)。
このOPSIは脾摘後2年以内の発症が多いとはされるものの(前掲文献Aの650頁)、成人例では術後何年経過してもその危険性は減少しないとされている(文献C「脾摘後重感染症について」(橋本直樹)254頁)。
このようなOPSIの急激な臨床経過と高い死亡率のため、肺炎球菌ワクチンの接種、抗菌薬の予防投与などが臨床的に推奨されている(前掲文献Bの114頁)。
このように、OPSIは発症後50~80%が死亡に至る危険な病態であり、その予防こそが重要となる。そのためには肺炎球菌等原因菌による感染を防ぐことが最重要であって、ワクチン接種と原因菌への暴露対策が中心となる。
(イ)脾症("splenosis")
脾症("splenosis")は外傷や脾臓摘出術の際に脾組織が腹腔内(胸腔内)に散布着床することから生じ、異所性に成長する後天的疾患である(文献D「外傷性脾損傷後に直腸膀胱窩に認めた脾症("splenosis")の1例」(安藤晴光ほか)742頁)。
脾組織が飛び散った部位の腹膜面が無茎性に発育することにより、進行すると組織の捻転や破裂等といった腹部症状を来すことがあり、この場合外科的な治療が必要となる。
脾症は、脾摘後の患者の肝臓、空腸、後腹膜、直腸膀胱窩に認められることが多く、7:1の割合で男性に多い。また、脾摘術からの器官は平均して22.6年であり(前掲文献Dの744頁)、OPSI同様、脾摘後長期間が経過してから発症・発現しうるものである。
(ウ)小括
以上のように、近時においては、脾臓摘出後、OPSIや脾症といった無脾状態による疾患罹患の恐れが指摘されており、いずれも脾摘時から長期間経過後に発症、現実化するものである。特にOPSIについては、その発症後の予後が極めて不良であるなど結果が重大であり、将来の労働能力喪失の程度は大きいといえる。
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